「心を指導される生活」
心を指導されて生活している人とそうではない人との間には、一体どのような差があるのか考えてみましょう。堕落したこの世界には体の主人と法の主人はいますが、心の主人はいません。それが問題です。夫婦の関係においても、夫は妻の心の主人ではなく、体の主人である場合が多いのです。親子の関係を見ても、親は血統的にあるいは習慣的に親という位置に立っているだけで、親子の心のつながりが欠落しています。先生も同じです。生徒にとって心の師にならなければならないのに、知識の先生にとどまっています。ですから、生徒に慕われ侍られる先生がいないのです。
人間同士が、夫婦、父子、兄弟といった心の絆で結ばれた家庭、その家庭の存在意義が、昨今、個人においても社会にとっても、どんどん失われてきています。先進国ほど、家庭の離婚率が高いというのが現実です。現代は家庭を大事にしない、必要としない時代と言ってもいいでしょう。
体は離れていても、誰かに心を指導されて生活している人は、尊い人です。真の孝子とは、親から離れて生活していても親から心を指導されている子供のことを指します。そのような子供には未来があります。行動するにしても、親が心配するようなことはしないのです。孝子は父母から心の指導を受けた土台の上で物事を決定し、選択し、所有します。決して自分勝手にはしません。一方親不孝者は、父母から形式的な指導は受けたとしても、心の指導は受けません。ですから親の前では「はい」と返事は良くしますが、親がいなくなれば勝手気ままにふるまうのです。
烈女が何故尊いかと言うと、夫から心を指導されながら、全てを決裁して生活するからです。料理を作るために買い物に行っても、夫の好きな物を考えながら買い物をするのです。ですから、全ての生活が夫の心を基準にして行われているのです。同様に、烈男が尊いのは妻から心の指導を受け、その上で全てを決裁して生活をするからです。
愛国者や忠臣が何故尊いかと言えば、国と国民を基準としてそれに従い、物事を決定していくからです。人々から称賛される人は、心を指導されて生活している人です。反対に人に後ろ指を指される者は、誰からも心の指導を受けず、自分勝手に生活している人です。
人間は本来、他律で生きるようにはなっていません。鞭と法で(強制的に)治められるようにはなっていないのです。心で指導し、指導されるようになっています。しかし堕落により、この世は偽りの世界になってしまいました。ですから、他律的な法律で人を指導し、指導されるようになってしまったのです。これが堕落の悲劇です。ところが神様はこの地上に心の師、心の主人を送って下さいました。その御方が、即ちメシヤです。イエス様を信じ、心の師として侍り指導を受けながら生きていく人が、真のクリスチャンです。たとえイエス様を信じたとしても、心を指導されないまま生活したら、その人は偽りのクリスチャンです。それでは、イエス様から心を指導される者とは、どのような人のことを言うのでしょうか。言行の動機がイエス様と一致している人です。イエス様の心を本性で尋ね、その上で語り、行動するような人のことです。本性でイエス様の心を尋ねてみれば、全て「愛しなさい」という言葉が返ってくるのです。何故なら、イエス様の御言の核心が愛にあるからです。
イエス様の言行の動機と過程と結果は全て愛であり、価値の中心です。ところが私達は、本性でイエス様の心を尋ねていくのではなく、神学を通して知的にイエス様を探っていく場合が多いのです。神学は学問をする人にとっては尊いのですが、愛で生活をする人にはむしろ煩わしく、面倒なものです。私達がイエス様に感動する場合、神学的なイエス様に感動するのではなく、愛のイエス様に感動するのです。真の御父母様に感動するのも同じです。愛の御父母様に感動するのです。形式と制度は、内容を満たすためにあるのであって、中身を満たした後は煩わしいものとなります。もはや不必要なのです。神学は愛の皮にすぎません。実にはならないのです。ですから神学的に見つめる人には、自分の教派以外のものは全てが異端に見えてしまいます。ところが、愛に溢れたイエス様のような人にとっては、全てのものが自分のものなのです。そのような人には敵がいません。全ての人が兄弟姉妹なのです。ですから神学的傾向の強い信仰者は実に可哀想な人であり、不幸です。教派主義や形式主義は神学の副産物であり、愛の実は統一と調和です。愛によってのみ、宗教の真の統一が可能です。神学では、宗教の統一は出来ません。
統一教会員の心の主人は、真の御父母様です。ですから、私達は真の御父母様から心を指導されながら生活しなければなりません。私の言行の動機を真の御父母様はどのように思われるだろうか、そのことを心で尋ねてみるように心掛けるようにしましょう。そうすれば、必ず善なる回答が得られるでしょう。そのようになっているのです。皆様は統一教会に入教した時、統一原理を聞いて感動したと思います。そして原理的に生活する方法を指導されたことでしょう。それまでは、夫婦に不和があっても良心の呵責を感じなかったかもしれません。ところが原理を聞いて心の指導を受けた後は、良心の呵責を感じるようになって来るのです。このような心の指導による生活の改善、それが信仰の発展ということです。信仰の発展は環境的要因の発展ではありません。情的生活の発展です。自分の情をどの位主管出来るかが、信仰の発展の程度です。それは、興奮した自分の感情を無理矢理押さえつけることを意味するのではありません。自分の感情を愛で昇華させ、現実を越えていくのです。それが信仰の発展です。心を指導して下さる師に侍りながら生活出来ることが、尊いことなのです。この世には、家庭生活における心の持ち方を正しく指導して下さる方がいません。真の御父母様は夫婦関係、親子関係、兄弟関係など、家庭生活全般に渡って具体的に指導して下さる偉大な先生です。
ところで、アダム家庭は心を指導されずに生活した代表的な家庭です。エバは、神様から心の指導を受けることが出来ませんでした。堕落の瞬間、エバの本性は「いけない」と叫んだことでしょう。ところが、天使長の誘惑は、堕落の方向にエバを引っ張ったのです。そしてついに、エバは天使長の誘惑に勝つことが出来ませんでした。アダムも同じでした。彼らは、神様から心の指導を受けることが出来なかったのです。
人は不法を行う時、不安になります。不法を行いながら、心が自由になる人はいません。原理が善を軸として回るからです。誰でも本性では善が好きなのです。全ての人々が、善を我が法だと思うのです。アダムとエバは、神様から心を指導されるべきでしたが、かないませんでした。カインも、心を指導されないまま自分の気持ちを中心として行動したので、アベルを殺してしまったのです。殺しながらも喜んでいたかと言えばそうではなく、苦痛と不安を抱きながら殺してしまったのです。血気に走れば必ず後悔します。一時的な気分で行動すると、過ちを犯し易いのです。本性の主人である神様やイエス様や真の御父母様に聞いてみてから実行しなければなりません。天使長に対する葛藤をエバがアダムに打ち明けていたなら、堕落しなかったことでしょう。カインが興奮した感情を親に報告していたなら、またハムが父ノアに尋ねてみたならば、過ちは犯さなかったに違いありません。このように、二つの道を前にして迷ったならば、必ず聞いて指導を受けなければなりません。皆様は行くべき道とやるべきことにおいて、心を指導される生活を訓練しなければなりません。天の側に心を指導されなければならないのに、サタン側に心を指導されてしまったことが問題なのです。人間的な信仰は、何十年しても発展には繋がりません。良い結果には結び付かないのです。
では、心を指導されて勝利した人を取り上げてみることにしましょう。アブラハムの家族がそうでした。アブラハムは全生涯を通して心を指導された人でした。神様に選ばれた時の自分の動機が彼の人生を貫き、生活を指導する力となりました。彼は神の召命に応じた時の自分の動機を心の奥に刻み、終生大事にしたのです。故郷の山河を離れる時も、妻がパロに奪われた時も、イサクを献祭として捧げた時も、いつも心を指導されていたのです。また、彼の妻サラは夫から心を指導されて生活した人です。神様の前に絶対従順する夫を見ながら常に夫を尊敬し、従順屈服しました。アブラハムがイサクの献祭をサラに相談した時、彼女は夫の考えに賛成しました。万一サラが反対していたならば、イサク献祭という神の摂理は失敗していたことでしょう。このようにサラは夫から心を指導されて生活していたので、神の摂理に対して決定的な役割を果たすことが出来たのです。息子イサクも、親から心を指導されて生活した孝子です。人は誰でもある決定的な立場に処した時、普段の真実が現れます。死を前にして父に絶対従順するということは、普段から父の御旨を生命視していたということです。父から心を指導されて生活をしていた証です。ヤコブもヨセフもそうです。皆心を指導されて生活したので、万事が亨通したのです。このように、心を指導されることが重要です。
それでは逆に、サタン側の働きを考えてみることにしましょう。サタンは私達が神様に愛されない様に、神の前に真っ直ぐ行かない様に誘惑してきます。とりわけ、自分の心がサタン側に傾いていたり中心者から外れたりしていると、心が神の方に向かわないように働きかけて来ます。私達が愛の減少感を感じた時も同じです。人間的に横的な言葉を使って、私達が神の方へ向かわないように働きかけて来るのです。勿論、そのような横的な言葉に左右されてしまう人間も問題なのですが・・・。言葉をかけてきた人が縦的で正しい信仰生活をしている人なのかどうか、きちんと確認した上で判断しなければなりません。人の言葉に簡単に左右されて横的になってはいけません。そのような人を神様はとることが出来ません。
アダムとエバのことを思い出して下さい。天使長はエバを言葉で惑わし、彼女が神側に行かない様に仕向けたのです。「善悪を知る木からは取って食べてはならない」という神の御言に対し不信を抱かせ、誘惑したのです。サタンの声はいつも横的で、しかも甘い言葉です。
神様に絶対的な忠誠を尽くしたアブラハムは勿論、妻サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフも「万事亨通」なのです。万事が順調に通るのです。思った通り、考えた通り、企画した通りに成されていくので万事亨通なのです。ですから、心を指導されて生活する人は本当に尊く、幸いです。彼らは、本性の懐かしさを持って生活している人達です。懐かしさを抱いて生きている人は、人生に疲れません。懐かしい人、懐かしい場所、懐かしい仕事を持っている人は福の多い人です。そのような人は疲れ果てず、常に生気にあふれた活気のある人です。例えば、親を慕い懐かしむ子供達は、常に活気に満ちています。そのような子供達は、たとえ山の上にある粗末な家であったとしても、親のいる家を懐かしむのです。大きな宮殿のような家であっても、親がいなければ意味がないのです。
新婚の夫婦もそうです。お互いに懐かしさに満ちあふれているので、生気あふれる生活を送るのです。疲れ果てた生活など、考えることも出来ないのです。そのような意味で、懐かしい人、懐かしい場所、懐かしいことが無い人は不幸な人です。ですから私達はどんな人でも懐かしく感じ、愛していかなければなりません。会いたい、御言を伝えたい、何か持って行ってあげたい、といった懐かしさ、真の愛を持たなければなりません。愛において、貧乏になってはいけません。万物の貧しさはこの世だけのことです。しかし、愛の貧しさは永遠を意味します。つまり、あの世で永遠に愛に飢え渇いた生活をしなければならないのです。地上の10年は、霊界では1時間にすぎません。この世で100年生きたとしても、霊界では10時間にすぎないのです。一瞬のことです。
また、心を指導されないまま生活する人は、自分しか知らない人です。利己主義者であり、調和の大切さが分からない人です。私達は、常に神様の心情圏に立って判断すべきです。自分の目で判断してはいけません。同様に、人間的な目でものを見てはいけません。
一度、自分自身をよく見つめてみましょう。「私には愛があるのか、情は熱いのか」。もしあなたの情が不足していると思ったら、もっと成長していかなければなりません。懐かしさを育まなければなりません。あなたは誰かに心を指導されて生活していますか。人間は愛に左右されたいと思うのであって、法律に左右されたくはありません。愛には絶対服従したいのです。あの世には愛しかありません。ですから憎しみや怨讐の対象が愛の対象に変わっていかなければなりません。イエス様は、自分を殺そうとする者さえ愛しました。ところが私達は、兄弟姉妹であっても憎しみ合うことがあります。家族が一つになれないのに、どうして他人を愛することが出来るでしょうか。それでは人を喜ばせることが出来ません。
これからは、神様に心を指導される生活を心掛けましょう。そのためには、報告・連絡・相談が欠かせません。そうすれば神様に指導され、人生の方向性が示されるでしょう。そして発展し、善なる結果が出るようになっています。神様の永遠で無限な運勢圏にのれば、自分が持っている運命よりもさらに大きな者となることが出来るでしょう。それが、心を指導される生活なのです。そうすれば運命が変わってきます。皆様の人生が実り多きものとなりますよう、祈願致します。







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